【コペルニクス】常識を疑い、自分の目で確かめる

  • 2026/02/14
  • 地動説
コペルニクス

「固定観念を180度覆し、視点を転換すること」「コペルニクス転回」と呼びます。
これは、コペルニクスが地動説を唱え、1000年以上絶対とされてきた天文学の常識を覆したことに由来しています。

しかし実際のコペルニクスは、決して「向こう見ずな革命児」ではありませんでした。保守的で敬虔なカトリック教徒であり、寿命が尽きる寸前まで地動説を公にしようとしなかった人物です。
今回は、このコペルニクスの人物像について、深く迫りたいと思います。

目次

– 「天動説」が絶対の真理だった時代
– コペルニクスという人物
– ブルゼフスキとの運命的な出会い
– 惑星の逆行運動
– 30年の沈黙の終わり
– 命の終わりと一冊の本
– さいごに…

「天動説」が絶対の真理だった時代

天動説
イラストAC

古代ギリシャのアリストテレス、そしてプトレマイオス以来、1400年以上にわたり、地球が宇宙の中心であるという「天動説」は絶対的な真理とされていました。それは単なる科学理論ではなく、世界観そのものの土台でした。

聖書には
「神は地をその基礎に据えられた。地はとこしえに揺らぐことがない」
という記述があります。これが天動説を強力に支えていました。

聖書
聖書 AdobeStock

15~16世紀に生きたコペルニクスの時代においても、この構図は変わっていませんでした。古代ギリシャのアリストテレス、そしてプトレマイオス以来、1400年以上にわたり、地球が宇宙の中心であるという「天動説」は絶対的な真理とされており、天動説は単なる科学理論ではなく、世界観そのものの土台でした。

したがって、地球が動くと主張することは、単なる学説の提示ではありません。神が創造した世界秩序、そして教会の権威そのものへの挑戦と受け取られかねない、極めて危険な行為だったのです。

コペルニクスという人物

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若き日のコペルニクス
GettyImage

コペルニクスは、カトリック教会の高級官僚であり、経済学者であり、医師であり、そして天文学者でした。正式な肩書きは、ポーランド・バルミア地方の司教座聖堂参事会員(カノン)。
現代でいえば、教会運営を担う行政官です。天文学はあくまで余暇の研究でした。

経済学者としての側面

「悪貨は良貨を駆逐する」
この言葉は後に「グレシャムの法則」として知られますが、コペルニクスも同様の理論を提唱しています。

当時のプロイセン地方では、ポーランド王国とドイツ騎士団が独自に通貨を発行しており、質の悪い貨幣が流通していました。人々は良質な銀貨を貯め込み、支払いには価値の低い貨幣を使います。その結果、市場には悪い貨幣ばかりが残ります。

コペルニクスはこの状況を分析し、1517年と1526年に「貨幣鋳造は国王が一元管理すべきだ」と提言しました。これは実際に議会で採用されます。
彼は思索家である以前に、現実問題を解決する実務家でした。

医学と天文学の関係

10歳で両親を亡くしたコペルニクスは、聖職者であった叔父ルーカス・ワッツェンローデに育てられます。イタリアへ留学し、ボローニャ大学で教会法を、パドヴァ大学で医学を学び、正式な医師資格も取得しました。

当時、医学と天文学は密接に結びついていました。占星術は医学教育の一部であり、病状診断や治療時期の判断には天体の運行が重要視されていたのです。つまり、彼の天文学への関心は、医師としての実用的な必要から生まれた側面もありました。

さらに彼は、ドイツ騎士団との戦争ではオルシュティン城の防衛司令官も務めています。兵站管理から砲台配置まで指揮を執り、城を守り抜きました。

経済・医療・軍事を担う、多面的なルネサンス的人物。その傍らで、夜ごと一人、星を観測していたのです。

ブルゼフスキとの運命的な出会い

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アルベルト・ブルゼフスキ
出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』

彼が天動説に疑問を抱くきっかけとなったのが、クラクフ大学時代の師、アルベルト・ブルゼフスキでした。ブルゼフスキは最新文献を積極的に紹介し、「自分で考える」姿勢を学生に求める教育者でしたた。さらに彼は、絶対視されていたプトレマイオス理論に公然と疑問を呈していました。

月の運動には説明できないズレがある。
この事実は、「権威より観測を信じよ」という態度をコペルニクスに植え付けます。
常識を疑う姿勢——それこそが後の発見の原点でした。

惑星の逆行運動

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惑星の逆行運動
出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』

彼が特に注目したのは、惑星の「逆行運動」です。火星や木星は、夜空を移動する途中で一時的に逆方向へ動き、再び元の方向へ戻ります。天動説では「周転円」という複雑な仕組みで説明しました。
大きな円の上をさらに小さな円が回る構造です。しかし、それは理論を守るための付け足しのようにも見えました。

コペルニクスは考えます。
「神が創った宇宙が、これほど不格好なはずがない。
もっと美しい法則があるのではないか?」

もし動いているのが天ではなく、地球のほうだとしたら?

地球が太陽の周りを回っていると仮定すると、逆行は「追い越し」による見かけの現象として説明できます。車が隣の車を追い越すとき、相手が後退して見えるのと同じ原理です。
理論は、一気に簡潔になりました。

30年の沈黙の終わり

それでも彼は、主著『天球の回転について』をすぐには出版しませんでした。地動説に到達してから約30年、沈黙を守ります。理由の一つは多忙さ。もう一つは、理論が引き起こすであろう波紋への恐れでした。地球が動くという発想は、物理的にも哲学的にも受け入れ難いものでした。

沈黙を破ったのは、若き数学者レティクスです。
1539年、彼ははるばるフロムボルクを訪ね、理論を直接学びます。その数学的美しさに魅了され、出版を強く勧めました。彼の情熱が、老学者の決断を後押しします。1540年に理論要約が出版され、好意的な反応を得たことで、ついに主著の刊行が決まります。

命の終わりと一冊の本

1543年5月24日。コペルニクスが息を引き取るその日に、『天球の回転について』の初版が届けられました。しかしこの本には、彼の知らない匿名の序文が付け加えられていました。

「これは真理の主張ではなく、計算上の仮説である」

印刷監督を務めたオジアンダーによるものです。
この“防波堤”のおかげで、直ちに大きな弾圧は起こりませんでした。
教会との深刻な対立が表面化するのは、70年以上後、ガリレオの観測以降のことです。

さいごに…

コペルニクスは、単なる革命児ではありませんでした。
社会に深く関わる実務家であり、多才な知識人でした。

そして彼の業績は、
常識を疑う姿勢を教えた師、
理論の価値を信じて支えた弟子、
そうした人々との知の継承の中で生まれました。

「常識を疑い、自分の目で確かめる」

AIやビッグデータが“正解”を提示する時代だからこそ、この姿勢はより重要になるのかもしれません。