シリウスと古代ナイルの軌跡

  • 2025/07/13
  • 銀河系
シリウスと古代ナイルの軌跡

冬の夜空にひときわ明るく輝くシリウス。
地球から見える恒星の中で最も明るく、オリオン座のベテルギウス、こいぬ座のプロキオンと共に冬の大三角形を形作っています。
この美しい星が、実は古代エジプトの運命を左右する重要な役割を担っていたことを知っていますか?

シリウス、夜空の宝石の秘密

冬の大三角形
冬の段三角形

シリウス星は、地球の夜空において太陽の次に明るく輝く恒星で、その明るさは-1.4等級です。
地球からの距離は約8.6光年と近いため、肉眼では他の超巨星よりも明るく見えるのです。

等級の見方
数値が小さいほど明るくなります。
例:シリウスより明るい金星の等級は−4.2

しかし、シリウスは単独の星ではありません。
実は、シリウスAとシリウスBという2つの星からなる連星、つまり双子星なのです。私たちが見ているのは明るいシリウスAで、その周りを小さく暗いシリウスBが公転しています。

シリウスAとシリウスBの距離は約20AU(太陽から天王星までの距離に相当)あり、シリウスBは約50年かけてシリウスAの周りを一周します。
このため、シリウスBが地球から観測できる期間は限られており、特にシリウスAから最も離れた軌道に位置する約5年間だけ、望遠鏡を通してその姿を捉えることができます。
ちなみに、2025年は、この貴重な観測期間の最終年にあたります。

神話の中のシリウスは永遠に運命を追い続ける

ライラプス
ライラプス

シリウスは、おおいぬ座の口元に位置する星です。おおいぬ座には様々な神話がありますが、中でも「運命」をテーマとした興味深い物語として、獲物を決して逃さない俊足の犬、ライラプスの伝説が語り継がれています。
ライラプスは、工芸の神ヘパイストスがゼウスのために作った犬で、その後ゼウスから愛人エウロパへ、さらにその息子ミノスへと渡り、最終的にアテネのケパロスが所有することになります。

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テウメッサの狐

一方、ギリシア中部には、決して捕まらない特性を持つ凶暴な狐の怪物、テウメッサの狐が棲んでいました。テウメッサはテーベの町に頻繁に出没し、多くの子供たちを襲い、食い殺していました。テーベの人々は、被害を食い止めるため、毎月一人の子供を生贄として捧げるという悲劇的な状況に耐えるしかありませんでした。

この状況を打開するため、テーベの王が頼ったのがライラプスでした。
しかし、ここに矛盾する二つの運命がぶつかることになります。

ライラプス:「どんな獲物でも決して逃がさない」
テウメッサ:「誰にも捕まらない」

ライラプスはテウメッサを追いかけますが、テウメッサは永遠に捕まることなく逃げ続け、ライラプスもまた獲物を追いかけるのをやめません。両者は文字通り、延々と追いかけ続ける堂々巡りの状況に陥ってしまいます。

おおいぬ座
おおいぬ座

この不毛な追跡劇を見かねたゼウスは、ライラプスとテウメッサを石に変え、ライラプスを天に上げおおいぬ座としました。こうして、テーベの町と子供たちは救われたのです。人生における堂々巡りの状況を、神の介入が止めたこの神話は、古代から現代まで続く、人の運命の不変の定義を私たちに示唆しているのかもしれません。

シリウスが告げるナイルの氾濫

通常、夏のシリウスは太陽と同じ方向にあるため、太陽の圧倒的な光に打ち消されて肉眼では見えません。このため、夜空に輝くようになる冬場に注目されてきました。

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ヒライアカルライジングのシリウス

しかし、古代エジプトでは、夏のある時期にシリウスが夜明けの東の空に再び現れることが非常に重要だったのです。シリウスは約70日間ほど姿を消した後、夏至の時期(6月中旬頃)に太陽とともに東の空に再び姿を現します。
このシリウスの再来は、古代エジプト人にとって「これからナイル川の氾濫が始まる」という、非常に重要な合図でした。

古代のナイル川とエジプト人
古代のナイル川とエジプト人

ナイル川は、世界最長の川であり、全長6,600キロメートル以上にも及びます。中央アフリカから北へ流れ、ヴィクトリア湖を水源とする白ナイル川と、エチオピアのタナ湖を水源とする青ナイル川がスーダンで合流し、やがてエジプトを通り、地中海へと注ぎます。

ナイル川の氾濫は、7月頃に発生するモンスーンによって、エチオピア高原に大量の雨が降り注ぎ、その水が主に青ナイル川に流れ込むことで引き起こされました。このエチオピア高原から流れ込む水には、ミネラルや栄養分が豊富に含まれており、それはまるで畑に直接届けられる無料の肥料のようでした。

古代エジプト人の農耕
古代エジプト人の農耕

雨がほとんど降らない乾燥地帯であるエジプトの土壌には、多くの塩分が含まれています。古代エジプト人は、広くて浅い遊水池を造り、洪水で増水した水をそこに溜めました。そして、川の水位が上がる時期に水路を開いて水を排出することで、土壌に含まれていた塩分を洗い流しました。この自然の恩恵によって、塩分の多いエジプトの土地は、水と栄養分を含んだ豊かな農地へと生まれ変わったのです。

こうしてナイル川の氾濫は、エジプトに豊富な食糧と水をもたらし、集落が形成され、それが都市国家へと発展し、私たちが知るエジプト王国の礎となりました。

変わり果てたナイルと、不変のシリウス

アスワン・ハイ・ダム
アスワン・ハイ・ダム

「エジプトはナイルの賜物」これは古代ギリシャの歴史家、ヘロドトスが残した有名な言葉です。この言葉通り、エジプトはシリウスの合図で始まるナイルの氾濫によって、数千年にわたり繁栄を享受してきました。

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塩害を受けた畑

しかし、数千年を経た今、ナイルの状況は大きく変わっています。1970年に完成したアスワン・ハイ・ダムにより、ナイルの洪水は管理され、毎年運ばれてきた肥沃な水が下流に届かなくなってしまいました。ダムはエジプトに安定した電力と灌漑用水をもたらしましたが、その一方で、ナイルの洪水が止まり、下流に栄養分を含む水が届かなくなった結果、農地の塩害が進み、土地が痩せてしまうという問題も生じています。

夜のギザのピラミッド

エジプト文明を支えてきたナイルの賜物は、皮肉なことに人類の英知と技術革新によってその形を変えてしまいましたが、シリウスは今も昔も変わらず、夜空で美しく輝き続けています。
私たちが夜空の星に惹かれるのは、人の住む世界にはない、こうした「不変の美しさ」があるからなのかもしれません。